そもそも私たちは、なぜ努力しているのでしょうか?
「仕事を頑張る」を例にとってみましょう。多くの場合、仕事面で努力をするのは「お金」のためです。
ではなぜお金を稼ぎたいのか?それは生活するためです。自分や家族の衣食住の最低限の生活を維持するためですよね。
そのために汗水流して長時間の間働くわけです。これを見ている方も、毎日大変な思いをされてお金を得ている方もいるでしょう。お疲れ様です。
こんなに頑張ってるということ、いつも努力をしているということ、わかってもらいたいですよね。
自分が養っているご家族だったり、大切にしているパートナーだったりに、この頑張りを認めてほしいですよね。
私たちが努力をするのは究極的には、
役に立った人から認めてもらう、
すなわち「承認欲求」を満たしたい
からなのです。
あらゆる努力は、承認欲求を得ることが最終地点なのです。
前置きはこの辺りにして、今日の本題です。
私たちは、自分の努力は認めてほしいくせに、他人の努力に関してはあまり注目しないし、どれほど頑張ったかを知ろうともしません。
今日の結論は、
他人のことにはほぼ関心がない
ということです。
今回は、前半はこの結論についてお話して、後半は他人に関心を持つ、すなわち他人の努力を認めると何が起きるか、ということをお話していきます。
他人に関心がないとは?
他人に関心がない、と言っても、反論したくなる人もいると思います。

そんなことないよ!頑張ってる人はみんな気にかけているし、応援してるよ!
もちろん、個人的に応援している人などはいると思います。中にはお金を払ったりして、物心両面で支援している、という人もいるでしょう。
しかし、それはこの地球の70億人を超える膨大な人口のほんの数人に過ぎません。
この世の大多数の人は、あなたからすれば赤の他人であって、この世のすべてのじんせいやその生きざまに注意を払うことなど、絶対に不可能です。それこそ「神業」でしょう。
みんな頑張ってるのに関心がない?
では質問です。
あなたが「この人努力してるな。頑張ってるな」と認識している人、何人いますか?

家族のために一生懸命頑張っているお父さんに感謝している
とか、

夢のために精一杯努力している彼氏を応援しているの。
など、血のつながっている家族や恋人、ごく身近にいる人は、自分にとって「目立つ」場所にいて、またそれなりの利害関係があるから、そのひとたちの頑張りも伝わってきます。
ところがあなたが毎日足を運ぶコンビニやスーパーを思い浮かべてみてください。
「あの人、商品の品出し、いつも頑張ってるなあ」とか、「ひっきりなしにお客さんが来て、レジ打ちって大変だなあ」とか、思うことなく、意識することなく、ごく当たり前のことだと思って通り過ぎていませんか?
しかし言うまでもなく、店員さんは一生懸命頑張って働いているわけですよね。
また、普段何気なく近所のゴミ捨て場にごみを捨てていくと思いますが、あなたがごみを捨てた後にゴミを収集して、分別して、処分する人のことまで常に考えている、ということはあまりないと思います。私自身もありません。
私もゴミ処理のアルバイト経験があるのでわかりますが、ゴミの分別はとても大変です。ゴミはまた重いですし匂いもしますので、重労働です。かなりの頑張りが必要。
でもそのような人々の努力に気を配ることもなく、私たちは時には無造作にゴミを捨てたりしてしまいます。
このように私たちは、赤の他人に関しては、努力するのは当たり前以前のことで、見向きもしないし普段意識すらしないというのが実情なのです。
他人のことには関心ない、というのはまさにこのことです。
つまり私たちは、他人に対しては冷たいくせに、自分については努力を認めてもらいたい、というわがままな生き物であるわけです。
他人の努力を意識すると何が起きる?
では、全くの赤の他人の努力を意識してそれを認めるようになれば何が起きるのかと言えば、答えはシンプルです。
ということです。
というように、今まで気づけなかった影の努力をしている人たちに感謝の気持ちを捧げることができるのです。
そしてその先にあるのは、「自分はいかに多くの人に支えてもらっているか」という喜びです。
ここまでくると、「感謝しなければないならない」という義務感ではなく、「心から感謝したい」という積極的なきもちになります。
いかに自分が素晴らしい、便利で、人にやさしい環境の中で暮らしているかがわかってきて、幸福感も増していくのです。
おわりに
自分の努力を認めてほしいのはみんな一緒。であればこそ、少しばかり他人の頑張りにも目を向け、讃えてあげるのはいかがでしょうか?というご提案をさせていただきました。
この世の中はもちつもたれつ、支え合いで成り立っています。お互いの頑張りを認め合える、素敵なやさしい世界をみんなで作り上げていきたいですね。