「無私」という言葉、ご存知ですか?
おそらくこのページを訪問してくださった方は、一度は目にしたことのある熟語なのだと思います。そして、その意味を知りたいのだと思います。
さっそく調べてみましょう。辞書にはこう載っています。
私的な感情にとらわれたり、利害の計算をしたりしないこと。私心がないこと。また。そのさま。「無私な(の)態度で裁定する」「公平無私」
出典:デジタル大辞泉
「私心がない」というのが大まかな意味です。自分のエゴを挟まないということですね。
自分の気が赴くままに感情的な態度を取ったり、自分の利益のみを優先させたりと、自分中心に物事を考えている人は、「無私」とは程遠い印象がしますね。
「無私」を説明するにはこれだけあれば十分で、ここで記事を終わってもいいのですが、せっかくなので、もう少しこの言葉を深堀りしてみたいと思います。
「無私」問う言葉の本質をとらえた偉人の名言をはじめ、「無私」であることのメリットと、実際に「無私」になれるのか?という疑問にもお答えしていきます。
「無私」の意味とは?
無私の意味、といえば前述の辞書の引用で説明したわけですが、具体的なイメージが沸く説明をしておられる方がいるので、引用します。
出光興産創業者・出光佐三の言葉です。
外国ではこの「無」ということは、何もないということです。
ところが日本の無我無私ということは、最大ということなのです。自分をはなれ、自分をなくしたときに、そこに社会的に一番大きなものが出てくるのです。
自分にとらわれているときは小さい。しかも、その自分は人格、学問、技術すべての点において人に負けない強いものであることが無の前提である。
その強いものを自分のためにのみ使わず、お互いのために使うということが無、無我無私のあり方です。出典:出光昭和シェル
ここで、2つのポイントが出てきました。
順番に解説していきましょう。
自分をはなれ、自分をなくすとは?
これは、自分の人格、才能、技術といった、自分を構成する「強み」を自分だけでとどまらせることなく、世のため人のために活用しましょう、ということです。自分のものでありながら、社会のモノ、公のモノになる、という感覚です。
もちろん、集団のために自己犠牲を強いる風潮になってはいけませんし、歴史を振り返るとそれが強調され過ぎた時代もありましたが、世の中の役に立つスキルや人格であれば、社会に還元していくことが大事。
それによって世の中は潤い、人々は幸福になり、自分自身にも利益が返ってくることになります。
お互いのために使う意義
特定の人やグループに対して「尽くす」という考え方では、見返りを求める思考になりがちです。「何かお返しをしてくれるだろう」という期待感が生まれ、ギクシャクした関係が生じやすいです。
そうではなく、
お互いに分け合おう
というギブアンドテイクの関係になることが理想です。
相互に無私である関係が、お互いに得られるものが大きく、精神的なつながりも良好になるのでいいことづくめです。
逆に片方だけが無私でもう一方は私心だらけ(後述する「独占欲」が強い状態)であれば、アンバランスになり精神的にも疲弊するので、一方的に与えすぎていないか注意が必要です。
無私のメリットっであるの?
無私の精神を実践することで、何かメリットがあるのか?ということですが、自分のモノを世の中のために手放す、すなわち「執着しない」という考え方は身に着きます。
前述した通り、無私と言えば「自分を犠牲にする」というイメージがやはり強いですが、それは少しピントがずれています。得たものをいつまでも所有せず、世の中に放出するといいうことであり、自分の実力を正しくフェアに発揮しようということです。
あるものを独占したい
という欲の表れです
「あるもの」と言えば、さまざまなものを含みます。「お金」だったり「時間」だったり「楽な仕事」だったり「幸福感」だったり、有形無形を問いません。
無私になる、ということは独占欲を手放すという、とてつもないメリットがあります。
実際に無私にはなれるの?
ここまでお読みいただいた方には見当がつくと思いますが、過度な自己犠牲に陥らない本来の「無私の精神」は誰にでも身につけらられます。
繰り返しになりますが、
というとてもシンプルな考え方に集約されます。
自分の持っているものを分け与えることで、みんながハッピーになる、同時に自分自身も受け取れるものがある、この単純な循環が「無私の精神」により実現していくのです。
おわりに
「無私」と言われると「私心を捨てる」ということですから、とても辛く苦しいことのような印象があります。
しかし、「私心」=「独占欲」と捉えることで、かなりハードルは下がり、誰にでも実現可能な心理的な習慣であることがわかります。
無私は、シンプルに生きる上で取り入れたい考え方なのです。