表現の自由の意義とは?「あいちトリエンナーレ2019」から見えたもの

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現在開催中の「あいちトリエンナーレ2019」で行われていた企画展「表現の不自由展・その後」が中止になったことが話題になっています。

愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、企画「表現の不自由展・その後」が元慰安婦を象徴した「平和の少女像」などを展示し、開幕3日で中止に追い込まれた。展示内容は偏った政治的メッセージと受け取られかねず、公金を使ったイベントとして公平性に欠ける不適切な内容という印象を受けた。

出典:産経新聞

この問題を巡り、議論が沸騰しているわけです。

今回は、中止に至った経緯と、表現の自由の意義と問題点についてお話したいと思います。

 

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「表現の不自由展・その後」中止の経緯

あいちトリエンナーレは、公式サイトによると、国内最大規模を誇る国際芸術祭で、2010年から3年ごとに開催されていて、今回が4回目となります。国内外から90組以上のアーティストを迎え、国際現代美術展のほか、映像プログラム、パフォーミングアーツ、音楽プログラムなど、最先端の芸術作品を紹介しています。

「表現の不自由展・その後」については、同公式サイトには、このような解説が載っていました。

「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。

出典:あいちトリエンナーレ2019

2015年に東京のギャラリーで開かれた「表現の不自由展」は、過去に公立館などで撤去または展示を拒否された作品を集めたものだったのですが、この企画に関心を持ったジャーナリストの津田大介氏が新たな作品を加えた「その後」展を、芸術祭の芸術監督を務めるあいちトリエンナーレ内で開催することになりました。

その中で設置された韓国の彫刻家夫妻による「平和の少女像」は、ミニチュア版が24年に東京都美術館で展示され、「運営要綱に抵触する」として撤去された経緯がある。この像が韓国の反日感情をあおる象徴となっているのは周知の事実だ。

「表現の不自由展-」ではこのほか、昭和天皇をモチーフにした版画や映像、沖縄の米軍機墜落事故を題材にした絵画、国旗をあしらい政治の右傾化を批判した政治色の強い立体作品なども並んでいた。

出典:産経新聞

この展示に対し、多くの批判がSNS上で沸き起こり、主催側に抗議が殺到。なじゃにはテロ予告ととれる脅迫めいた内容のものもあったようです。このような事態を受け、展示中止の決断に至りました。

新聞記事ではこのような論評がありました。

津田氏は開幕前に「『実物』を見ることで、表現の自由や検閲の問題について考える契機にしてほしい」と説明。県の担当者も「政治的賛否やイデオロギーを問うものではない」と述べたが、展示や解説内容に恣意(しい)的な面が否めず、だからこそ不快だとする抗議の声が県などに殺到したのだろう。

出典:産経新聞

ここに、作品に対する「解釈の違い」が浮かび上がっています。ここが「表現の自由」の難しい点であり、「表現の自由」は常に揺らぐことを示しています。

 

表現の自由の意義とは

端的に言いますと、

・表現の自由は認められるが無制限ではない
・表現を拒否する自由もまた保証されるべき
・拒否する自由が有効になるのは現実的には「多数決」

といったところです。具体的にお話しましょう。

日本国憲法第21条では、「言論,出版その他一切の表現の自由」を保障しており,「検閲の禁止」と「通信の秘密(盗聴の禁止)」を明記しています。

では、憲法に規定されているからといって、ありとあらゆる表現が認められて果たしていいのでしょうか?

さらに、慰安婦像は「芸術作品」ではなく、韓国が政府を挙げている「政治的プロパガンダ」の一環という見方があり、それを公金で展示するのは大問題で、国際社会に誤ったメッセージを送ることになるという意見があります。

個人が自己負担において作品展示するのは、賛否に関わらず憲法上自由が保障されていますが、自由には当然(批判を含めて)責任を伴います。

ここからは私見ですが、「表現の自由」とは表現をする側の自由ですが、一方で、表現を受け取る側にも「拒否する自由」があると考えています。とくに、明らかに受け取る側の心を傷つけ、精神的被害を被ったとなると、「拒否する自由」が「表現の自由」よりも優先されるべきと思います。

ただそれなら、たったひとりの「拒否する自由」が残りすべての「表現を受け入れる自由」に勝ってしまいます。これでは何も表現の自由は成立しなくなります。そこで理性的かつ客観的な判断を助けるのが、「どれだけ多数の人が拒否したか」です。

今回は、「日本人としての尊厳を傷つけた」と多くの国民が訴えている事案であるので、主催者側は展示の中止を決断したことは、多数を占めた「拒否する自由」を尊重した結果といえます。公金によって展示会を運営しているという重い事実を踏まえれば、今回の措置は一定の評価はできると思っています。

そして重要な論点は、「拒否する自由」とは、表現を受け取る側の主観でしかないということ。ある人は素晴らしいと思った作品でもある人は傷つくことがありますし、逆もあります今回のケースでは、慰安婦像の展示に理解を示した人もいれば、断固拒否した人もいるわけです。表現への評価は千差万別です。

これが表現の自由の難しいところであり、限界でもあるのです。

もちろん脅迫めいた要求は全く持って論外ですが、表現の自由は無制限であるべき、とも断定できないので、理性的に表現を慎むことがときには必要になります。具体的には、多数の人が不快に感じる表現には、制限を加えることもまた受容しないといけないということです

「ということは表現とは多数決で決まってしまうのか?」という声が聞こえてきますが、現実にはそうせざるを得ないと思っています。人間の価値観の多様性を認める社会でありたいのならば。

 

まとめ

様々な議論がSNS上などで飛び交っている今回の問題ですが、表現の自由の本質について考えるのにいい機会になったのではないかと思います。

「表現の自由」と「表現を拒否する自由」が真っ向からぶつかった問題でした。

 

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